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唯一無二のスタイルで世界を圧倒し続ける
二ノ宮隆太郎監督、待望の最新作
監督・主演を務めた長編第二作『枝葉のこと』(2017)が第70回ロカルノ国際映画祭、さらに前作『逃げきれた夢』(2023)が第76回カンヌ国際映画祭に正式出品されるなど、国境を越えて着実に評価を積み重ね、様々な立場に置かれた 人々の“生き様”にフォーカスしてきた二ノ宮隆太郎監督。待望の最新作は、3人の若者を主人公に描く青春群像劇で、主演には期待の新世代俳優・坂東龍汰、髙橋里恩、清水尚弥が抜擢された。彼らを取り巻く大人たちには、木野花、豊原功補、岩松了ら実力派俳優らが名を連ねる。さらに、音楽ユニット・ group_inouのimaiが長編映画では初めて音楽を手掛け、予測不能な展開に彩りを加える。
寄る辺ない日常の中で
「人生」へ疑問を抱きながら、
未来に抵抗する若者たちの物語
「善/悪」「生/死」「自/他」という人生の普遍的な問いに独自の目線で光を当てる
鋭い言葉の応酬と、不穏かつ美しい絵画的ショットの連続で、
日本映画の新たな地平を切り拓く衝撃作が誕生した。
「誰もが観たい映画ではなく、誰かが観たい映画を作る。」をミッションに掲げる新レーベル、「New Counter Films」第一弾作品。
工場に勤める寡黙な渉(坂東龍汰)、
血の気の多い飲食店員の英治(髙橋里恩)、
一見温厚そうに見える介護士の光則(清水尚弥)は、
互いに幼馴染の若者 である。
ある晩秋の昼下がり、暇を持て余した彼らは
“世直し”と称して街の人 間たちの
些細な違反や差別に対し、無軌道に牙を剥いていく。
その“世直し” は、徐々に
“暴力”へと変化してしまうのだった─。
Story
Review
『若武者』評―
異能シネアスト・
二ノ宮隆太郎が
怠い日常に埋め込んだハードコアな爆弾
森 直人
(映画評論家)
とてつもない映画がここに在る。『若武者』と言っても時代劇ではない。あえて言うなら『THE 3名様』を連想しなくもないボンクラトリオの青春模様が描かれるが、こちらの彼らは脱力どころか、各々の形で意味がわからないほど殺気立っている。
工場勤務の寡黙な渉(坂東龍汰)。好戦的なロン毛の英治(髙橋里恩)。ニヒルと柔和が表裏一体で食えない感じの光則(清水尚弥)。元々は幼馴染み4人でつるんでいたが、1人は墓地に眠っている。心に刀を携えつつ、人を斬る機会を奪われた現代の素浪人たち。いや、単に「しょうもない」奴ら、そこらへんに転がっているクズの集まりかもしれない。だが一寸の虫にも五分の魂がある。
監督・脚本は二ノ宮隆太郎(1986年生まれ)。超個性派のバイプレーヤーとして評価される俳優でもあるが、同時に映画作家として他の誰にも真似できない独自のソリッドな傑作を放ち続け、瀬々敬久や今泉力哉、三宅唱など名だたる監督たちも惜しみない賛辞を贈る異能中の異能シネアストである。
二ノ宮の珠玉の前作『逃げきれた夢』は第76回カンヌ国際映画祭ACID部門に選出された際、内容面でトルストイの小説『イワン・イリッチの死』(黒澤明監督『生きる』の原型)を引き合いに出され、演出面では小津安二郎の無常観との近しさを指摘された。異能中の異能もまろやかに発酵したか……と感慨に耽っていたところ、しかし『若武者』は、不意打ちのようにドロッとした濃厚な原液が画面から染み出す。『魅力の人間』や『社会人』といった自主映画の初期作品を彷彿させる、ハードコアな二ノ宮隆太郎が突然戻ってきた。
だが単純に原点回帰とは言えない。撮影の岩永洋による、登場人物が空間の中心に来ない不安定なフレーミング。画面の隅にばかり人が映ってる異様な構図で、闇の内面や思考が具象化して不穏に蠢く。居酒屋や介護施設といった職場ではそれなりに良き成員として機能している英治や光則を観て、筆者はこう思った。例えば“表の顔”とは別に、SNSに吐き出される攻撃的な暗い言葉が生身の人格を持ったら、彼らのように動き出すのではないかと。
おそらく二ノ宮の特異性と傑出点は「本当のこと」しか描きたくないという潔癖さだ。彼は自ら紡ぎ出すフィクションに、欺瞞や綺麗な嘘といった夾雑物を削ぎ落とした「本当のこと」だけを硬質に結晶させていく。
『若武者』は特にその意思が際立つ。『枝葉のこと』で二ノ宮自身が演じた主人公・隆太郎のバトンを受け継いだような坂東龍汰は、まさに監督との共闘者だ。カメラを超えて語りかけてくるこの映画は、我々の奥に横たわる半睡の危険な真実を起動させる可能性を孕んでいる。怠い日常のどこかに埋め込まれた爆弾のように。
後ろめたい本音の革命性
矢田部吉彦
(前東京国際映画祭ディレクター)
表現に政治的正しさが求められ、表現者も人格者であることが求められて久しい。
それがマイノリティの人権向上や制作現場の環境改善に繋がるのであれば文句がないとして、果たして表現者の本音はどこにあるだろうか。
現代の映画で監督の後ろめたい本音が描かれることは、まずない。そもそも監督の本音など反映されようがない商業映画はともかくとしても、作家性の発揮が許されるインディペンデント映画においてすら、ネガティブに受け取られかねない本音は出しづらい。インディペンデント映画は、マイノリティとされる人物が監督となり、自身のジェンダー観なりセクシュアリティを語る場として機能しはじめており、それは大歓迎する事態であることは論を待たない。一方で、マジョリティに属するストレートの男性監督が本音を発露する場として、現在の映画はあまりに危険である。そこに、二ノ宮隆太郎監督は踏み込んだ。
『若武者』では、3人の男性の若者がダラダラと時間を過ごす。ひどく無口だったり、異常に饒舌だったりの違いはあるが、それぞれが社会や人生に対して虚無を抱いてる。3人ともに、バイトに近いがそれなりにちゃんと仕事をしており、社会の落伍者ではない。つまり、社会のどん底から物申すわけではなく、日常のストレスを発散するレベルで毒を吐き、そして他人を傷付ける。彼らの発する言葉と見る風景は、全てではないとしても二ノ宮監督のものであると見てしまうし、監督も承知の上だろう。周囲の気に入らない人間をけなし、清廉な世の中を腐す。同性愛を偽ってナンパのネタにするというエピソードは危険であり、物議を醸してもおかしくないが、正しいことに気を遣い過ぎることへのうんざりした監督の心境が批評的に表現されているとも見える。現代社会に対する監督の鬱憤が直接的に表現されているという点で、本作は画期的である。
ただし、重視したいのは、二ノ宮監督が軽はずみな気持ちで作っているのではないということだ。作品を見れば分かるが、おそらく監督は命を賭けて撮っている。画面の片隅に人物が寄るという、独特のアングル/構図によって、社会の片隅に生きる自分を強調しながら、発言の責任には死をもって報いることも厭わないとでもいうように、文字通り「首を差し出して」いる。表現者として、自分は人格者ではないが、若武者ではある、という意味に取れるタイトルからは、暴走して自死を遂げかねない覚悟と悲壮感が伝わるのだ。